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出演者発表!今年の顔ぶれから見る、2010年以降の春一番の変化-嵐とスタッフの会話 Part.2

『春一番』主催者・福岡風太(2024年6月死去)の息子であり、昨年は風太に代わって主催と司会を務めた福岡嵐と、2013年から参加している有志スタッフによる、『春一番』にまつわる対談企画。2月に公開したPart.1の好評を受け、Part.2を公開します。

 

5月の『春一番 BE-IN LOVE-ROCK』開催に向け、2月より募集を開始した有志スタッフにはたくさんの応募がありました。新たなスタッフも加わり、各所へのチラシ配布や出演者・関係者用のパスの作成など準備に追われる日々を過ごしています。この日はちょうど第三弾の出演者が決まり、ほぼ全組出揃ったタイミング。その顔ぶれを見ながら話していくと、話題は2010年以降の『春一番』の変化から、フィナーレとなる今年の見どころまで話が及びました。

 

この2010年というのは福岡風太と共に長年『春一番』を作ってきたプロデューサーのあべのぼる(阿部登)が亡くなった年。『春一番』の存在を最近知った方にこそ、またここから出会っていただける方にこそ、読んでいただけると嬉しいです。

――:今、第三弾出演者まで発表したけど、これでほぼ出揃ったね。

 

:ハンバート ハンバート、ぐぶつ、アチャコさんが決定。これで福岡風太がやってきたことの集大成であり、今やるべき『春一番』といえる顔ぶれが揃った。ここ数か月、本当にいろんな選択肢を考えたけど、もうこれしかないって思ってる。

 

――:結果、今年の初出演はタッチマッターズとのろしレコードの二組か。

 

:でもそれぞれリトルキヨシくんと、松井文がいるグループであり、あくまで『春一番』に関わってきたこの二人が今どんな活動をしているかでオファーをしたから、初出演という感覚はないかな。前回の対談でも話した通り、風太との関わりが見えるという部分は全組共通している。

 

――:最後だけあって、久しぶりに出演される方もたくさんいる。

 

:山下洋輔さんや坂田明さんは風太との関わりというより、あべさんがマネージャーをやっていたつながりで1973年に山下洋輔トリオで出演したのが最初だけど、90年代以降も度々出てもらっていた。笑福亭福笑さんも最初は1973年で、風太とは昔からの仲間。センチメンタル・シティ・ロマンスは風太がロードマネージャーをしていたバンドだし、高田漣くんは言わずもがな高田渡さんを引き継いでヒルトップ・ストリングス・バンドとして出てくれる。ついでに言えば、2年前に金森幸介さんが出たのは21年ぶりだったし、去年にはシバさんも戻ってきてくれた。ご無沙汰していた人にお声がけすることをちょっとずつ進めていたのよ。

 

――:『春一番』自体の終わりに向かって、風太さんと袂を分かつことになった重要な方たちを呼び戻す狙いがあったんだね。

:なにも揉めたわけじゃない(笑)。でもこれだけたくさんの人が長年に渡って関わってきた中で、それぞれ『春一番』に理想を持っているし、どこかで風太と考え方がずれた人も中にはいたと思う。でももうそれ以上は触れないよ。今回出てくれた人はみんな『春一番』を愛してくれて快諾してくれたんだし、それで十分。

 

――:出会いと別れはそりゃたくさんあるよね。事実として風太さんは、センチのマネジメントに注力するために1979年に一度『春一番』を終わらせて名古屋に移住する。その後1986年にバンドを離れてキャリアリセットして、『春一番』復活の機運が高まり、1995年に再開するという流れやし。やめてまた次の何かが始まるという繰り返し。

 

:そういう見方もできるかも。今回のセンチメンタル・シティ・ロマンスは2021年に亡くなった中野督夫さんの代わりに、息子の中野雄日くんが入った特別な編成でやってくれる。ここは僕から細井豊さんに相談して決まったんだけど、この前観に行った雄日くんのライブではめちゃめちゃアンビエントをやっていて、普段は全然違う音楽をやっている。だからセンチとしてどんなことになるのかすごく楽しみ。

 

――:笑福亭福笑師匠は過去に落語家バンド・ヒロポンズハイでも出演しているけど、今回の出演は2014年以来。落語での出演ってどうなるのか楽しみやなぁ。

:福笑さんは、風太が去年入院することになった時、聞きつけてすぐ病院に駆けつけてくれたんだよ。古い付き合いだし、最後は呼びたいと思った。

 

――:そもそも『春一番』って2011年の40周年記念の5日間開催をピークに、徐々に日数が減ったじゃない?おのずと演者も絞ることになったと思うけど、風太さんはどう考えていたんだろう。

 

:60代に入って体力的にもきつくなってきたというのと、やっぱりあべさんが2010年に亡くなったことが大きいと思う。だから翌2011年まで踏ん張って、2012年から4日間になり、2016年から今の3日間開催に落ち着く。

 

――:ずっと風太さんとあべさんでやってきて、実務面をグリーンズの鏡孝彦さんが支える体制だったけど、あべさんがいなくなった。そのことが風太さんにどんな影響を及ぼしたと思う?

 

:風太と二人三脚で作ってきたけど、あべさんがちゃんと関わり始めたのは1973年の3回目から。やっぱり最初に『春一番』を始めたのは風太であり、自分のもとに返ってきたような感覚があったんだと思う。そこで「ロック・フォーク・ブルースの野外コンサート」という原点に回帰しようとした。

 

――:確かに1990年代後半から2000年代にかけて出演者の顔ぶれを今見ると、本当に混沌としているね。

 

:大阪にいたあべさんが面白いと思った人をどんどん連れてきたんだよ。風太はまだ東京に住んでいて、大阪に戻ってくるのは2009年のこと。それまでは両方の地域から、お互い持ち寄ったアイデアを全部詰め込んでいたからカオスになっていた。でもあべさんが亡くなったのをきっかけに、もっとシンプルな方向に立ち返っていく。「日本でたくさん行われている「ロック・フェスティバル」とは違うし、これまでのように「なんでもあり」じゃない。『春一番』という野外コンサートってなんなんだ?」って一人でずっと考えていた。

 

――:自分が有志スタッフに初めて参加したのは2013年からだけど、江州音頭の桜川唯丸一座や、河内音頭の山中一平師匠でみんな踊り狂っていたり、清水ひさおさんが綱渡りするわ、維新派のヂャンヂャン☆オペラまであって、「なんだこのイベントは!」って衝撃だった。今、諸芸の部分を一手に担っているのはナオユキさんか。

 

:原点回帰を目指しつつ、まだカオスを引きずっていた時期かもね(笑)。ナオユキさんは漫談だけど、風太はあの芸をブルースと捉えていたんだよ。あと今、音頭は「むちゃくちゃでっせ むちゃでっせ」に集約されているね。

 

――:「アチャコ音頭」ね(笑)

 

:江州音頭や河内音頭を期待しているお客さんは今でもたくさんいると思うし、あの盛り上がりは本当にすごかった。でも『春一番』のイズムを感じられるのはアチャコさんだと風太は見ていたんだと思う。

 

――:あと、あべさんが亡くなってから2015年くらいまでの過渡期には、去年亡くなったヒデマロさん(奥村宗久)がサポートしていたよね。ずっと事務所で風太さんと喋っていた記憶がある。

 

:風太が手伝いをお願いしたわけじゃないと思うけど、ずっと事務所にいた。話し相手になってくれていたし、歌屋BOOTEEやRomel Amadoさんのような関西のブルース界隈から選抜したり、自分も演者として歌ったり(笑)。色々とあべさんの代わりをこの時期担っていたのは確かにヒデマロさんだった。

 

――:こう話を聴いていると2010年以降の『春一番』は、徐々に終わりに向かいながら変化してきたとも言えるね。そして最後の今年はどんなフィナーレを迎えるのでしょう。

 

:出演者はほぼ決まったけど、まだタイムテーブルに悩んでいる。頭とトリはすでに決めたんだけど、それ以外をどう構成しようかと……。ずっとラインナップをにらめっこしていると、それぞれの日でやっぱりカラーも違うことが見えてくるし。

 

――:そのカラーって言葉にできる?

 

:1日目は、中川五郎さんやペケさん(いとうたかお)はじめ、70年代から出ている人たちというラインと、風太もリスペクトしていたムジカジャポニカやRAINBOW HILLと『春一番』のつながりが見える日だね。この場所を仕切っている伊藤せい子さんがいる夕凪がいて、ナオユキさんがいて、金佑龍くん(PAHUMA)、gnkosaiBAND、そしてハンバート ハンバート。

 

2日目はあべさん色が強めかな。AZUMIさん、光玄さん、ヤスムロコウイチさん、良元優作さん、DEEPCOUNT。なによりパートナーのNIMAさん。鉄平(アフターアワーズ)も小さい頃からあべさんと仲良かったし、のろしレコードはAZUMIさんから大きな影響を受けているでしょ。この縦のつながりも『春一番』ならではだと思う。

 

最終日は『春一番』全体のフィナーレにしなきゃいけないから。風太の人生を一望していく感じかな。有志スタッフから始まった阪井誠一郎さんのROBOWがいて、デビュー翌年の1997年からずっと出続けている小谷美紗子さん、70年代から80年代前半までを共に過ごしたセンチメンタル・シティ・ロマンス、そして風太の始まりから一緒だった大塚まさじさん、高田渡さんを超えて高田漣くん。また山下洋輔、坂田明、渋谷毅という日本を代表するジャズの大御所3組もいる。壮大だね。本当に3日間通して全組必要不可欠な人たちだからこそ、どの順で出てもらうかは本当に悩む。

 

――:この話を聞くと『春一番』をより深く楽しめる気がする。

 

:今回は各日のトップにある仕掛けを考えているから、なるべく最初から観てほしいよ。ここまで話していて思っていたけど、今回この記事企画があったからこうやって色々伝えられる。でも『春一番』って本当にお客さん任せだったよね。一日を通した作品として見てほしいからタイムテーブルを発表しないとか。11時に開場と同時に開演だから、早めに来て並ばないと1番目が観られないとか。映像や音源も90年代以降は発表してないし、とにかく会場に来て体感して、各々の楽しみ方を見つけなさいで、ここまで来た。

 

――:風太さんは「自分の頭で考えろ」っていつも言っていたし、常に能動的な関わりを求めていた。有志スタッフたちで運営していることなんて、その最たるものだし。

 

:そうそう。ちょうど今、風太が書いてきた文章や、対談とかインタビューをまとめて出版する話が進んでいて、色々読み返しているんだけど『BE-IN LOVE-ROCK』をやる時に書いたものがあって。その最後の部分にすごく『春一番』の真髄が詰まっているなと思った。

「音を出すモノと受け入れるものがあるというのがダメなのです。共に音を出し、共に音を受け入れるというのがホンマだと思うのです。コンサートを聞きに行くのではなくて、コンサートに参加するのです。1970年4月25日」。

 

――:なるほど。これを読むと任せっきりじゃなくて、最初にちゃんとメッセージを発信していたんだね。

 

:確かに。僕ももっと発信するようにするわ。とはいえ開催まで2か月を切りましたよ。今年集まってくれたスタッフにまだあんまりコミットできてなくて申し訳ない。ここから駆け抜けていくよ!


 

(2025年3月2日 東京・町田市周辺のとあるカフェにて)

取材・執筆:峯 大貴

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最初で最後の風太がいない春一番-嵐とスタッフの会話 Part.1

大阪の野外コンサート『春一番 BE-IN LOVE-ROCK』が、2025年5月3日(土・祝)~5日(月・祝)の3日間、豊中市・服部緑地野外音楽堂にて開催。1971年に初回が開かれ、1979年を最後に休止期間を挟み、1995年から再開。ゴールデンウィークの風物詩として長く親しまれてきました。その後コロナ禍による中止もありましたが、今年37回目の開催を迎えます。

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昨年の開催を終えた6月10日、『春一番』の顔であるプロデューサー・主催者の福岡風太が76歳で死去。それを受けて今年は、風太が第1回『春一番』前年の1970年に開催した野外コンサート『BE-IN LOVE-ROCK』を副題につけ、最後の開催となることが発表されました。

 

かつて『春一番』には事務所があり、スタッフやミュージシャンがそこに集まり、風太の話を聴きながら、みんなで会話をしながら、このイベントのことを知っていく文化がありました。しかし2021年に閉所。そして風太も亡くなったことで、もう本人から『春一番』の話を聴くことはできません。そして今年『春一番』がラストを迎えることで、今後は関わった人や参加した人の記憶の中でだけ、生き続けるものとなります。

 

本テキストは風太の息子であり、昨年は風太に代わって主催と司会を務めた福岡嵐と、2013年から参加している有志スタッフによる、昨年からの振り返りと今年の狙いについての打ち合わせの内容を起こしたものです。事務所があった当時、奥の机で風太が喧々諤々と議論しているところを、有志スタッフが作業しながら盗み聞きしているような、あの感じを少しだけでも共有できれば幸いです。最後の『春一番』はすでに始まっています。
 

――:2024年の『春一番』が終わったとき、どんな気持ちだった?

:最終日に入院中の風太がどうにか会場に来ることができて、ハンバート ハンバートが「生活の柄」を演奏したタイミングでステージに車いすで登場させたシーン※があったでしょ。あの光景を作れたことの達成感はやっぱり大きかったね。

※詳しい状況は昨年のライブレポートを参照(https://antenna-mag.com/post-72168/

――:その前年、2023年の時、風太さんは嵐くんの肩を借りながらも毎日出てきていたけど、去年はそれまでずっと出てこなくて。嵐くんが代わりにMCをしていたから、心配していたお客さんも多かった。だからこそ登場したときの、盛り上がりはすごかったよね。お客さん、演者、スタッフ、みんな泣いてたし。

:正直なところ風太の先がもう長くないってわかっていたから、去年はやりながら今回で最後だなって思ってたんだよね。やっぱり風太がいない『春一番』はできないと思っていたし、死ぬまで『春一番』をやり続けるってことをこれで全うできるだろうって。でもあそこで風太が登場して、無事にまた病院に送り届けることができた瞬間、「あれ?来年からどうすればいいんだっけ?」とちょっとだけ思って。

――:どういうこと?

:あの時、風太はちっちゃい声で「ハンバート ハンバート~」って紹介したけど、「春一番終わります」とは言ってないのよ。そういえば僕もその後の終演の挨拶のときに「春一番2024、終わります。どうもありがとうございました。」としか言ってなかった。

――:「風太が死ぬまで『春一番』を続ける」ことは決めていたけど、「風太が亡くなった時点で『春一番』は終わる」ってことをちゃんと決めてなかったし、伝えられていなかったってことか。

:そうそう。それで終わったあと風太は、やること全部終わった気でいるなってくらい日に日に弱っていって6月10日に亡くなった。そこからまた葬式とかでバタバタして、だいたい9月くらいに僕の生活も落ち着いたんだけど、そこでようやく実感が沸いてくるというか。「あ、風太もういないんだなー」って。

――:来年の『春一番』を風太なしでやるかどうか、ちゃんと考え始めたと。じゃあそのタイミングで今年やることを決めたの?

:いや、その時点ではもうやらないというか、あえて語弊も恐れず言うともうやりたくないって思った(笑)。僕にも生活があるし。でも開催を期待されているのはわかる。去年、一昨年とお客さんの前に立って風太の代わりにステージで喋っちゃったからね。

――:確かに『春一番』は嵐くんが継ぐんだと捉えた人も中にはいると思う。

:実際に「これからも春一番を楽しみにしています」っていうメッセージも去年たくさん届いた。でも『春一番』を継ぐことはないってことは、僕が関わり始めた20年くらい前から風太と話していて。風太も「『春一番』は俺のもんや。何かやりたければ、自分で立ち上げろ」って言われてたし、僕もそう思う。

――:やりたくないけど、やることにしたのはなんで?

:大前提として本当は風太が生きている内にちゃんと終わらせるべきだった。実際2020年に『終 春一番』としてラストにする予定だったけど、結局コロナで出来なかったじゃん。

――:確かに。2020年から3年間開催が出来なくて、2023年に再開した時もそこで終わりとはならなかったよね。その間、風太さんはどんな様子だったの?

:おしげさん(福岡榮子)が2018年に亡くなってから、体調も気力もどんどん弱っていって。2019年の『春一番』はもう意地だけで立ってたから、2020年で終わろうって説得したのよ。でも終われなくなっちゃったから、コロナ禍はずっとリハビリを頑張っていて。もう「『春一番』を終わらせるため」というより、「俺はまた『春一番』をやるぞ」っていう気持ちだけで生きていた。それで2023年にやっとできる状態になったんだけど、開催を告知した数日後にまた脳梗塞で倒れる。そりゃ悔しかったと思うよ。でもなんとか2023年は僕に担がれて出てきてさ、マイク向けたら「死ぬまでやるぞ!」って言いだす(笑)。それで何とか2024年まで何くそ根性だけで命を残していたって感じ。父親ながらすげぇ生き方だよ。パンクスだなと思ったよね。

――:じゃあ風太さんが終わらせなかったものを、ちゃんと終わらせるために今年やるってことか。

:そうね……誰かがちゃんと終わりって言わないと、なんかけじめがつかないなって。それは『春一番』に来てくれるお客さんにとっても、スタッフや出演者にとっても。僕にとっても、次の人生が始められない気がした。そうなったら、僕が言うしかないじゃん。風太の息子に生まれちゃったんだから。その使命感だね。

――:今回『春一番 2025』ではなく『春一番 BE-IN LOVE-ROCK』というイベント名にしたのはなんで?

:1970年4月に風太が最初に作った野外コンサートのタイトル。このアイデアを思い付いたのは鏡さん(鏡孝彦:株式会社グリーンズコーポレーション社長)で。聞いた瞬間、なんかすごく意味があると思って決めた。

――:『BE-IN LOVE-ROCK』はどんなイベントだったんだろうね。

:僕も資料で知るのみなんだけど、天王寺野外音楽堂でコンサートとビートルズの映画の上映会をやったらしい。その後、8月に大阪城公園で『ロック合同葬儀』、10月に京都円山音楽堂で『感電祭』を開催して、1971年の第1回『春一番』につながっていく。風太はこの時、22歳だよ。よくこんなことやろうと思ったよね。

――:元旦に最後の開催になることを発表してしばらく経ったけど、反響はどう?

:みんな納得してくれている。風太がいないなら仕方ない、むしろ最後やってくれるんだっていう感じ。「残念です」とか「終わらないでほしい」という意見はほぼなかった。去年か一昨年くらいから来るようになった人が「これから毎年行こうと思っていたフェスだったのに」っていうコメントは見たかな。でも、正直ほとんど反応は見てないけどね。


――:『春一番』がいわゆるロック・フェスティバルとは違うということは、最後まで伝えていきたいね(笑)

:あくまで「野外コンサート」。11時の開場・開演から18時30分まで、ステージ観たりゆっくりしたり、『春一番』という時間を楽しんでもらいたい。この違いはなかなか伝わりにくいよ。誰かお目当てのアーティストが観たいから来る人も多いけど、その期待に応えられてないなといつも思っている。タイムテーブルは発表しないし、1組20~30分くらいしかないし、他のフェスや、普段のライブより満足できないだろうなって。

――:最後はどんな内容にしようと考えている?

:どういうものを見せればいいか、今ずっと考えているところ。でも今までとは少しだけ違う考え方になるね。大枠の基準としては、今でも現役でいい音楽を続けている人であり、『春一番』および風太との関わりが見える人に絞ることになりそう。ここ数年、風太があんまり色んなライブを観に行けなくなってきたのもあって、僕の推薦した新しいアーティストに出てもらうこともあった。でもどう頑張っても1日に出てもらえるのは12~14組くらいだから、もうその枠は作れなさそう。

――:『BE-IN LOVE ROCK』から足掛け55年というこのイベントの歴史を一望できるラインナップになりそう。

:それをするには必要不可欠な人たちが、もう半分くらいこの世からいなくなっちゃったけどね。でも『春一番』の歴史って、同時に70年代から現在までの日本の音楽の歴史ともいえると思うんだよ。日本のロック、フォーク、ブルース、ジャズのルーツと言える人たちが出演してきた。もちろん他にもそんなイベントやフェスティバルはあるだろうけど、当時と全く変わらない形で今まで続いてきたのは『春一番』だけ。だからこの野外コンサートに関わってくれて、今もそれぞれの活動を続けている人たちのパフォーマンスをしっかり見せるのが重要だなと思っている。

――:開催宣言で「追悼でもなく、記念でもなく、当たり前でもありません。いつもの頃に、いつもの場所で会いましょう」と嵐くんは書いていたけど、最後に特別なことをするんじゃなくて、しっかり今まで通りの『春一番』をやりますよってことだと受け取った。

:そうだね。人気者を呼んで、豪華にフィナーレを迎えるような感じではない。今まで続けてきたことを踏まえて、呼ばざるを得ない人に声をかけていく。毎年同じような顔ぶれって言われ続けてきた歴史でもあるけど、風太は1年かけて色んな人のライブを観て、全組必然性をもってオファーしてきた。風太の基準に適う演者となったら、毎年ゼロから考えてもそうなるんだよ。そしてそれをどう新しく面白く見せるかをずっと考えていた。だから今年もちゃんと「風太の祭」をやるってことです。

――:毎年来ている人も、しばらくご無沙汰していた人も、最後に1回行ってみたいっていう人も全員集まれたらいいね。

:だから今回のテーマは「感謝」ですよ。出演者にもお客さんにも、スタッフにも。今まで関わってくれた人にありがとうと言うために開催します。さて、こっから本番までどんどんやること増えてくよー。まずさ、そろそろ有志スタッフの募集を始めないと。それをどうしようかねと……。


(2025年1月15日 春一番仮想事務所で)

取材・執筆:峯 大貴
 

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大阪・太融寺かつての春一番事務所にて(2020年撮影)

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