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春一番とは?

「春一番」とは、1971年に大阪で生まれた野外コンサートです。
毎年ゴールデンウィークに、このコンサートのためだけに集まる有志スタッフが、プロデューサー・舞台監督の福岡風太・阿部登たちと共に創っています。


1979年で一旦幕を閉じ、1995年に復活をして毎年開催してきましたが、2006年から「祝春一番」に改めました。

2020年は主催者・福岡風太が「終・春一番」と名付け、「春一番」を終わろうとしましたが、コロナの影響で中止せざるを得ませんでした。

昨年2023年には「春一番」として4年ぶりに開催。そして今年2024年もやります。

「春一番」とはどんなコンサートなのか?

このサイトで知るきっかけになってくれれば幸いです。

70年代のチケット

ウッドストック元年、1969年。

 

大阪にはコンサートが皆無でした。

野外で、ロックンロールで、オールナイトで、LOVEで、 

PEACEで、FREEDOMで…みーんなロングヘア。

そんなコンサートを私は望んでいました。

<自由というものは失うものがないことさ>

中川五郎が、「俺とボギー・マギー」でそう歌っていました。
私たちのほとんどは住所不定で無職。コンサートをするにも予算などありません。しかし、自分たちが観たいコンサートがあり、聴きたい、うたいたい歌がありました。それが原動力となって、1971年の5月の連休に<春一番>という名のコンサートを開いたのです。

 

<春一番>を作るすべての作業は、ミュージシャンもスタッフも区別なしです。コンサートを運営する事務所すらありませんでした。当時は大阪・なんば元町にあった「ディラン」という喫茶店に集まってミーティング(という名の酒盛り)をしていたのです。

 

歌をうたわない人以外は、みんなマネージャーでプロデューサー。舞台監督でも、PA、照明でもいいでしょう。要するに私 たちはなんでも屋だったわけです。でも、そんなことは苦ではなかったんです。それよりも一番大切なことはコンサートの現場にいて、自分の好きなミュージシャンやバンドの音楽を誰よりも楽しむことだったのですから。

 

みんな、タマゴでした。これか ら自分が何を本職にするのか考えもおよばなかったのです。

 

<春一番>は9年間続きました。「楽しかった」というのが最初の<春一番>を終えたときの感想です。「じゃあ、毎年この季節にやろう」ということになり2回目、3回目と続いていきました。毎年、5月の連休。

 

毎回、天王寺野外音楽堂。毎回出演するミュージシャンのなかからレコーディングをしたり、ツアーを経験することによって音楽を本職とするようになり、スタッフもまたマネージャー、PA、照明などを生活の糧とする者も現われました。私自身もバンドのロード・マネージャーとなりました。そして<春一番>の出演者全員のこと、それは私生活を知っていないとコンサート・プロデューサーでないという持論から外れはじめたのです。

 

<春一番>の幕を引いたのは、 そういったことも原因でした。私たちは職業を得、家庭を持ち、30歳を迎えていたのです。

 

あれから15年が経ちます。私たちも「失うもの」が多くなり、ふっと気がつくとあれほど観たかったコンサート、聴きたくてうたいたかった歌をも見失っている。手間暇かけ、プロデューサーの熱意がこもったコンサートがない。血の通った音楽の現場がない。

 

だから私たちは、私たちが大好きだった音楽をもう一度確認すべく15年ぶりに<春一番>を開催するのです。今ある肩書きを1995年5月の連休の間だけはずしてみようと思う人、そしてすべての職業人や学生、遊び人を募ります。

                                            ROAD&STAGE MANAGER 福岡風太

<春一番、RETURNS!>

 

日本のロック、ポップスが誕生したばかりの70年代…

大阪で特別なイベントが毎年開催されていた。その名は「春一番」。

無名のプロデューサー福岡風太とスタッフ達「ええもんは、ええ」のポリシーで始まったそのイベントには、日本のさまざまなアーティストが自ら参加して、そのパフォーマンスを競った。

 

そして新しい音楽を求めて集まった超満員の観客は、野外音楽堂のさわやかな初夏の陽射しと風と音楽をのびやかに楽しんでいた…。

 

その「春一番」が大人になった人気ア-ティスト達や「春一番」を伝説でしか知らない若いアーティストたちととものよみがえった。

 

今年1995年の初夏、日本のミュージシャンが再び動き出す瞬間の感動を、この感動をすべての観客たちといっしょに、ハートにきざめ…

1995年「はるいちばん」配布用チラシより。

<自由というものは失うものが何もないことさ>

 

ミュージシャンもスタッフも、無償で、観たい、聞きたい、うたいたい歌がありました。それが原動力となって、1971年の5月の連休に『春一番』という名のコンサートは開かれたのです。

 

『春一番』を作るすべての作業を手作りで行ない、当時と同じように本当に気持ちのよいコンサートをめざし、去年、15年ぶりの『春一番』が復活しました。 

 

そして私たちは、もっともっと自由になるために、1996年5月の連休も、服部緑地野外音楽堂で『春一番』を開催いたします。

 

去年(1995年5月)再開された『春一番』今年もやります。

2日間(‘95.5.4&5)を3日間にして、大阪のアーティストを中心に、ゆっくり、ハードに演ります。

 

どこまで自由に出来るのか、楽しく出来るのか。新しい唱が生まれ、新しい出会いがある。1アーティストのみの「キャーキャー」いうだけ ではなく。歌い続けられる、語り続けられるコンサート。みんなをびっくりさせるスペシャルゲスト。

 

今年は、私たちの力だけで、はたしてどこまで出来るのか、またできるものなのか、を実行したくて、スポンサーをゼロにしました。現在の日本のコンサートは、スポンサーなしではなにも出来ない経済状況ですが、私たちはそれを当然のごとく、自然に受け止め、これまでの人生を試してみます。

 

手間暇をかけ、プロデューサーの熱意と、血の通った音楽の現場。

だから私たちは、大好きだった音楽を、これから大好きになる音楽を確認するべく、ふたたび、今年の『春一番』を開催させるのです。 

<ロックンロールを生きましょう 福岡風太>

 

1971年から1979年まで 毎年5月の連休のころに「春一番」というコンサートを9回続けてやりました。当時の会場 天王寺野外音楽堂 は取り壊されて 大阪城野外音楽堂 として再建されています。16年振りの復活「春一番‘95」はその城野音で開催しました。

 

去年の通算11回目からは 服部緑地公園野外音楽堂に会場を移しました。あの震災にあわれた人達が すぐ近くにある野球場に建てられた仮設住宅で今も不便な生活を強いられておられます。

    クソ
大東京を中心にした日本の音楽 状況はジャンルを問わず 四半世紀前と何も変わっていません。ロックに関しては同じ時間をかけて逆もどりしてしまったような気さえします。
「あしたのメシを食うためのお金になるんやったら なにやってもええんか?」と言いたいです。

 

「春一番‘97(通算12回目)」はロックのナツメロ大会ではありません。出演者もお客サンもスタッフも みんな前向きのロックンローラーです。
ミュージシャン達は自分の出演時間だけでなく他の人とも勝手に 自由に 即興で混じり合ってステージを楽しみます。

 

まるで 大阪名物「お好み焼」みたいなコンサートになります。青空の下 コンクリートの壁を吹き越えてくる 若葉に染まった薄緑色の風と一緒にみんなで「お好み焼」になりましょう。

 
前略 いつも大変お世話になっております。

’71年から ’79年まで 9回続けた「春一番」を‘95年に 16年 振りで再開しました。
アッ!という間に 再開3回目であります。音楽業界は四半世紀前と何も変わっていません。私も変わっていません。
相変わらずの舞台カントク稼業で旅しています。ロックンコールがロックンロールであるために 何を大事にすべきなのか。
私達は何で こんなコンサートをやるのか。世間や業界に問うのではなく 自分自身に確かめるためのコンサート創りを目先しています。
大阪名物「春一番」を楽しみに 皆サンで おいで下さい。ネブクロさえあれば 2泊3日ぐらい 何とでもなります。みんなで一緒に遊びましょう。

近代生活2007

<オレとおマエの春一番 福岡風太(文)2007年>

 

 2006年の7月から「ハンバートハンバート」という男女2人組アーチストのロード&ステージマネージャーをやらせてもらっています。
高田渡が逝った日に酒を止めてもうすぐ丸2年。中古のフォードカスタムワゴンは安全運転走行中です。

 今から30年前、29才で自動車運転免許をとりました。直後からの約10年間は4トントラックを改造した10人乗りのツアーバスを運転して日本全国を走り廻りました。
舞台監督という職業を身につけるためのコンサート修行ツアーでした。

 

 1979年、9回目の「春一番」を終えた後、名古屋に移住。
「センチメンタルシティロマンス」という地元在住のバンドのLIVE現場を仕切るスタッフとして自分達の活動だけではなく、
ソロアーチストのバッキングバンドとしても数々のコンサート&ツアーに参加しました。
(加藤登紀子、竹内まりや、岡林信康、斉藤哲夫、いとうたかお・・・)

 

 1986年6月、そのバンドを脱退、名古屋の大道具会社で約1年アルバイト修業。
 1987年暮れ、40才目前で「東京荒野」に移住。フリーの舞台監督として「なぐり(金槌)一丁」腰にぶら下げて文字通り「なぐり込み」の心意気でした。

 以来、現在に至るまで有名無名を問わず、自分が大好きな(もしくは「これはええ勉強でける」と感じた)アーチストだけを選んでLIVE現場を渡り歩いて来ました。
( 中村あゆみ、ゴーバンズ、シオン、江口洋介、大野えり、北京一、マリーン、Screamin' J.Hawkins、上田正樹&サウス・トゥ・サウス、Salina Jones、加川良、有山じゅんじ、The Blues Brothers Band、忌野清志郎 with Booker T.&MGs、THE 2・3's、ザ・タイマーズ、忌野清志郎スクリーミングレビュー、ぺギー葉山、ジョニー吉長、Matt "Guitar" Murphy Band、CUM'CUM'、木村充揮BAND、光玄、ヤスムロコウイチ、律とイサト、大塚まさじ、朴保バンド、金子マリ、近藤房之助)

 

 1979年の春、夏、秋3つ。1971年春に第1回「春一番」。元々が野外コンサートのプロデューサー上がりです。
LIVEに関しては舞台そのものの土台から制作していく作業の経験だけは誰にも負けない自負があります。
70年代前半はマネージャーとして大阪在住のアーチストとレコードを創ったりコンサートツアーに出かけたりしていました。
1年間すべての活動の集大成が毎年ゴールデンウィークに開催する「春一番」というコンサートだったのです。

 

 1995年、16年間の空白を経て復活した「春一番」も今年で通算22回目です。
 2006年の夏から70年代のライフスタイルに戻しました。「春一番」の出演者のツアーを自分で企画制作し、自分のツアー車にアーチストと器材を積んで走り廻っています。
 舞台監督(ロード&ステージマネージャー)は「パシリ」です。アーチスト(音楽家)が気持ちよくLIVE演奏できるよう精一杯のお手伝いをするのが役目です。

 

コンサート会場全体の潤滑油です。アーチストだけでなく、音響、照明、大道具、イベンターさん、ホールの管理人、果てはアルバイトさんを含めたすべてのスタッフ達と楽しく準備が進むように気を配ります。会場の外側だって地理(お客さんの足の便とか)、天候も把握しておく必要があります。器材の搬入から本番終了後のバラシ、器材搬出積込みの最後まで、すべての流れを組み立てて実施していきます。作業によっては体力勝負が求められる 内容もありますが、男も女も老いも若きもスタッフの気持ちはひとつ、同じです。

 

チケットを買って会場に来て下さるお客さんに、どれだけ喜んで満足して帰っていただくか、常に意識して仕込みの時間を過ごしていきます。
緊急の買い物だって人手が足りない時はブカンもバイトもヘッタクレもなしです。スタッフ全員が「パシリ」なのです。
アーチストをいかにして「のせる」か、がスタッフ全員の仕事です。すべてが終った後の打上げでおいしいビールを飲むためには、目一杯頭と体を総動員するしかありません。
一生懸命遊びまくるということです。アーチストもスタッフも一緒に楽しい一日を過ごします。ステージの裏が楽しければそれは自然に客席にも伝わっていこうというモノです。
そうやってステージと客席全体が一体となっていくのです。

 

 「春一番」の現場では、出演者が客席でコンサートを楽しんでいます。ステージに向かってヤジを飛ばしたり、逆に言い返されたりするシーンは大阪独特の大事な文化だと思います。
CDやDVDは一方通行です。LIVEは生き物だから儚くて切ないのです。LIVEツアーはその連続です。毎日毎日その切ない気持ちを心の中に大事にしまっておくのです。
そして次の「春一番」は、1年間貯めてきた感動のシーンを客席の皆さんに御披露するというワケです。阿部登も福岡風太もまだまだ旅の途中です。

 

 今年のゴールデンウィークもみんな一緒にマジカルミステリーツアーに出かけよう。 

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